永遠に古びない、
ベーシックの持つ力
コンパクトな器の持ち良さに
注目したい
1食の料理を、一枚のお皿にすべて盛り付けるワンプレートディッシュ。
従来の一汁三菜の食卓にはない、かしこまらない気楽さや、少ない洗いもので済む合理的なところが支持を得て、和洋を問わず、食卓に並ぶ機会が年々増えています。
一方で、大皿の活躍の陰で、小鉢や小皿などの器は、食器棚の奥で待機するようにもなりました。
さりとて、大きな器さえあれば、すべて事足りる、満足できるとは限りません。
来客のおりには、1人分ずつのお菓子を載せる銘々皿を用意したいし、おかず一品と汁物だけで食事を済ませるときには小ぶりのお皿を使いたい、そんなふうに感じるひとは多いでしょう。
大は小を兼ねるけれども、必ずしも万能ではない。
用途に合わせて自在に表情を変える、小さな器にしかできない役割が、確実にあるのです。
小回りがきくのは、コンパクト・カーだけにあらず。
何百年もの間、使い継がれてきた「椿皿」が、その佇まいから教えてくれます。

歴史に磨かれ、精緻を極めた、
うるわしき実用の器
紀州(和歌山県)の根来寺が発祥とされる「椿皿」の由来は、一説によると、お皿を横から見た形が椿の花に似ているからだそうです。その由来が何であれ、確かに言えるのは、数百年前から現在に続くデザインに伝わる、完成された美と使い勝手の良さです。
内側へ向かい緩やかにカーブを描く口縁(こうえん ※器の縁)と、盃を連想させる高台(こうだい ※器の下につけられた台)の融合したフォルムは、360度どこから眺めても美しい。無駄のない線で構成された端正な姿には、時代を経て残ったものだけの持つ、静かな力がみなぎっています。
とはいえ、小ぶりで低い重心に、ぐるりと皿の下を囲む幅広の高台の安定感は、普段使いの器ならではのもの。思わず持ちあげてみたくなる親しみやすさは、「椿皿」が芸術品としてではなく、暮らしのなかで愛用されてきた実用の器である証でしょう。

食卓の名脇役と呼びたくなる
「椿皿」
古くから重用されてきた「椿皿」の使い勝手の良さは、食べ物を盛り付けると実感できます。
煮浸しなどの汁気の多い料理も盛れるように設計された丸みを帯びた口縁(こうえん)と、ぐらつきのない高台(こうだい)は、どんな料理でも大らかに受けとめてくれるからです。
和菓子にケーキ、果物と、何を盛りつけてもサマになる、懐の深い器が「椿皿」なのです。
何気なくお皿に載せるだけで、料理が美味しそうにみえるのが嬉しい。
柔らかく光を反射する、艶やかな漆に囲まれた食材は瑞々しさを増し、高台の絶妙な高さのもたらす典雅な空気に包まれ、「ご馳走」の雰囲気を醸し出します。
テイストの異なる洋食器などと組み合あわせても、しっくり収まる程よいサイズと、声高に主張せずとも視線を集める存在感に、機能性と美を追求した職人のこだわりがうかがわれます。

いにしえとつながり、
新しい物語を紡ぐ日々
古くから使われてきたものと共に暮らす。
それは、先人たちの紡いできた暮らしの歴史に、自分も連なることを意味します。
断食明けの僧が、椿皿に盛られた梅干しへ、うやうやしく箸を伸ばした瞬間。
切り下げ髪の幼女が椿皿を両手で捧げ持ち、畳の縁を踏まぬように注意しながら、客人のもとへ歩を進める姿。
女友だちにふるまう雛あられを、椿皿に分け入れる三つ編みの女学生。
物言わぬ器の記憶する数々の物語に思いをはせると、先人との間の時空を越えた不思議なつながりが立ち上ってきます。
塗り立ては、ややマットで黒に近い「椿皿」の色合いが、使う・洗う・拭きあげる作業を重ねるうちに、内側から滲みでる底艶をまとい、鮮やかで紫がかった飴色になっていく。
その様子は、ひとの一生の移り変わりにも似て、持ち主と同じ時間を歩む姿に、何やら親近感も湧いてきます。
「この器を、どんな風に使おうか」
あれこれ考える楽しみのなかには、物語の主人公である私がどのように生きるのか、自分自身と対話する時間も含まれているような気がします。
